特別企画 大阪の戦国武将  荒木村重という男

ま、波乱にとんだ人生だったのでしょうが、ふとこの人は何を思って生き延びたのだろうと思います。武将としての才覚も十分にあり、また文化人としての資質も大いにある人ですよ。信長に背いたのは家老の中川清秀の部隊の者が、当時交戦中の本願寺(大阪市)に兵糧を横流ししていたことの露見を恐れてのことと伝えられます。ま、理由のひとつでしょうが、それだけではないような気がします。加えて、非常に興味深いことは、彼の生きるということに対する異常なまでの執着ですね。一族を処刑され、地位も名誉も地に落ちてまでも、生にこだわるその理由は何だったんでしょう?ま、謎ですね。命が惜しい?生きることで運命に復讐した?秀吉の時代に秀吉の逆鱗に触れる出来事があり、自ら蟄居した事実などからすると、実は気の小さい人だったんのかも知れませんね。生に対する執着は、別に恥じることではありませんよ。時には自分の肉親を犠牲にしても、自らは生き残ろうとするものです。それは人間の本能ですから。
荒木村重という人もそういった人の一人だったんでしょうか?それは今となっては分かりませんね。戦に負けた方の資料というものはあまり残りませんからね。荒木村重を主人公にした小説がいくつかあります。私のお気に入りは「兵庫の壺」という小説です。なかなか面白いですよ。
結局、村重は天正14年(1586)、享年52歳で堺で死去。自然死と考えられます。以前紹介した南宗寺も村重ゆかりのお寺ですし、JR伊丹駅近辺(有岡城跡もある)の荒村寺には村重の位牌が安置されています。また、大阪府岸和田市荒木町は生き残った村重の子孫が開いた街だと言われています。
荒村寺

 ま、荒木村重という武将はあまり良い評判を得てないかも知れませんが、大阪を代表する戦国武将であったことは間違いありません。生き残った息子は有名な絵師・岩佐 又兵衛でございます。やっぱり、文化人としてのDNAも持ってはるんですよね~。
次回は、いつになるかわかりませんが、村重の従兄弟の中川清秀の特集をしたいと思います。この方ものなかなかの豪傑ですが、したたかな一面もありです。
荒木村重
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