中央大通 第7弾 川口 異国情緒あふれる街 ◆車で行こう!◆

大阪観光

中央大通り沿いの第7弾です。本日は西区の川口に参ります。

現在の川口は特に何かあるというわけではありません。私らの認識では倉庫街ですかね。最近は高層マンションも多いです。

この川口という地区、明治維新政府によって、大阪が開港され、外国人の居留地となったようです。

現在はその面影はありません。本田小学校沿いにこの石碑が残っているのと、この近くにある川口基督教会が唯一残っていて、当時の姿を垣間見ることができますかね。

紆余曲折はありましたが、1868年1月1日の大阪開市、1869年7月15日には大阪開港となりました。
多くの欧米人の商人が大阪に注目、当初居留地の分譲は26区画、その後10区画追加。その周りの区域を外国人雑居地として開放されたようですね。

このあたりが雑居地の一部だったと思われます。中国の人がたくさん住んでいたようですね。写真は川口聖マリア幼稚園です。この幼稚園の傍らに富島天主堂の石碑があります。

ありし頃の天主堂は本格的な赤レンガ造り、ゴシック様式の立派な建物だったようですね。天主堂はレックという領事館の人によって普請されたようですが、彼は阪神間の電信施設の大阪政府と交渉。相手は五代友厚のようです。この近くに、明治天皇聖蠋碑、大阪開港の石碑、大阪電信発祥の石碑や運上所跡などが並んでいます。

運上所とは税関ですね。各開港場、開市場に設けられた。大阪では1868年から五代友厚がその任に当っていたようです。居留地関係の仕事もしたそうですよ。
大阪は港としての寿命は短かった。河川に作った港で大型船の入港が難しかったし、阪神間の鉄道も整備されていたことなどで、欧米の商人達は神戸に移ったとか。代わりに宣教師達が入りました。居留地内では、たくさんの教会や学校ができます。一例を挙げると、永生学校(現・プール学院)、照暗女学校(現・平安女学院)ウヰルミナ女学校(現・大阪女学院)、三一神学校(現・桃山学院)などなど。女子校が多いですね。川口は女子教育の中心地となります。
パン屋、肉屋、理髪店、大阪発のホテルもこの川口から。あとカフェもたくさんあったようですよ。
そんなカフェで有名なのがキサラギ。

靴を脱いで、スリッパに履き替えるスタイルやったようですね。ま、庶民というよりは文化人が使う場所やったかも知れませんね。

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