淀屋 執念と忠義  -大阪企業列伝-

 やなくて、淀屋の話には、実はパート2がありまんねん。実は、闕所なるんちゃうかとうすうす感じてた四代目が、大番頭に暖簾分けして店を作らせていたようや。場所は大坂やのうて、伯耆国・倉吉(現在の鳥取県倉吉市)や。すごいな。倉吉て知ってるやろ。白壁土蔵群とか有名やろ。この暖簾分けしてもうた番頭が牧田仁右衛門ちゅう人やて。さすがは淀屋の大番頭や。めきめき倉吉で大きなって、牧田家四代のころには大坂へ復活や。代々「淀屋清兵衛」と名乗ったそういや(以後、後期淀屋)。大坂淀屋闕所から58年後のことみたいです。

 後期淀屋は大坂の地でも活躍し、かなりの大店であったようです。しかしながら、後期淀屋は突然店じまい。いつ?明治維新の折です。すべての財産を維新軍に差出し、徳川幕府が倒れるのを確かめると、こつ然と表舞台から消えていったそうですわ。 どや?ミステリアスやろ。淀屋の執念やな。「おのれ徳川💢。ざまぁみさらせじゃ‼」みたいなことやろ。

ま、しかしや、私はそっちより、牧田家、つまり後期淀屋の祖、牧田仁右衛門氏に大感動やな。何が?そらそうやろ?大坂の淀屋の当主とどんな約束したか知らんけど、当主-番頭の関係やいうたかてや、しょせんは他人やん。自分とこ倉吉でよろしくやってんねんやったら、そんでええやん。と思う現代人はようけおるやろな。この忠誠心みたいなもんは、いったいどっから来てんねんやろ?ちなみに牧田仁右衛門が倉吉行くときに、淀屋四代目の娘を一緒に連れて行ってはるらしいですわ。つまり、この娘を自分の子として養子とったか、または自分に似た年頃の息子おってんやったら、それといっしょにしてるわな。いずれにしても、大坂淀屋の血入った状態で代々「淀屋清兵衛」で店やってるはずや。もしかしたら、二代目以降は牧田家の血入ってへんかも知れんで。

 そう思うと、牧田仁右衛門氏とは、ほんまにどんな人やったんかな?牧田家についてはほとんど資料がないようで、はっきりとしたことは言えませんが、よっぽど淀屋に恩感じてんのかな。その頃の日本人の道徳観とかもっと感じてみたいな。ま、忠義の原点みたいなもんが、感じられます。

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