さて、先週月曜日続です。茨木が生んだ戦国武将でございます。前回は、白井河原の戦いで、宿敵・和田惟政の首を獲るという快挙をなした中川清秀公。出仕していた池田家のおひざ元に領地を賜ります。池田家中においては荒木村重に次いで、実質No.2でございましょう。そうそう、打ち取られた和田惟政の供養塔というものが、茨木市にはございます。
和田惟政氏も茨木を支えた人物ですからね。
さて、織田信長の統治下で清秀公の兄貴分の荒木村重が摂津一国を任される大名となり、荒木村重が池田城に、そして中川清秀が茨木城の入ります。しかしながら、荒木村重突然の謀反😅 ども、本願寺攻め(現在の大阪城のある地はもともと本願寺、つまり浄土真宗の聖地でございます。この大阪の地をほしい織田信長は長きにわたり本願寺勢力と戦うことになりました)で、中川清秀公の部下が本願寺側に兵糧などの物資を横流し😅😅😅 この犬につき、織田信長に釈明しようと安土城に行途中に、やっぱや~めた的に謀反になったようです。
「行けば、信長に殺される」と進言したのはどうも中川清秀公やったようです。かくして、荒木村重、中川清秀、そして高山右近は織田の反対勢力になりました。が、高山は織田に鞍替え、そして中川清秀公も織田に寝返ることになり、孤立した荒木村重は一族郎党を置き去りにして、逃げたようですな。中国の毛利の元に入たようです。後に、利休十哲の一人として茶道の世界で活躍したことはあまりにも有名な話ですね。
さて、話は荒木村重の話ではなく、中川清秀公の話。今の話だと、荒木村重を謀反に掻き立てておいて、自分はさっさと織田に復帰かぇ💢的な感じですね。まぁ、そうかも知れませんが、時は戦国の世ですからね。
その後、清秀公は豊臣秀吉公の時世では重要な武将として扱われています。戦もうまかったようですからね。清秀公は豊臣秀吉と柴田勝家の戦い(賤ヶ岳の戦い)で戦死します。時に清秀、42歳です。まだ、若いですね。豊臣政権下では重要な武将やったようですから、もう少し長生きしておれば、後の歴史もまた変わっていたかも知れませんね。
清秀公の墓所は茨木市の梅林寺にあります。
彼の子孫は九州の豊後竹田の岡城の藩主として明治まで大名として存続いたします。
岡城はご存知ですか?天守閣はありませんが、滝廉太郎の荒城の月の舞台になったお城ですよね。なかなか中川家もやりまんねん😀
断絶した大名家の多いことを思うと、大したものですな。中川清秀公は中川家では中興の祖と言われるぐらい偉大な人物であることは間違いないでしょう。子孫は九州にわたりましたが、もと大阪の茨木を地盤にしていた家でるということは、大阪人としてはうれしいことであります。
次週はちょっと山の方へ行きたいと思います。茨木は山の方もおもしろいんですよね。
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