茨木界隈7 茨木が生んだ戦国武将・中川清秀 その2 ー阪急・京都線沿いを行くー

 「行けば、信長に殺される」と進言したのはどうも中川清秀公やったようです。かくして、荒木村重、中川清秀、そして高山右近は織田の反対勢力になりました。が、高山は織田に鞍替え、そして中川清秀公も織田に寝返ることになり、孤立した荒木村重は一族郎党を置き去りにして、逃げたようですな。中国の毛利の元に入たようです。後に、利休十哲の一人として茶道の世界で活躍したことはあまりにも有名な話ですね。
さて、話は荒木村重の話ではなく、中川清秀公の話。今の話だと、荒木村重を謀反に掻き立てておいて、自分はさっさと織田に復帰かぇ💢的な感じですね。まぁ、そうかも知れませんが、時は戦国の世ですからね。
その後、清秀公は豊臣秀吉公の時世では重要な武将として扱われています。戦もうまかったようですからね。清秀公は豊臣秀吉と柴田勝家の戦い(賤ヶ岳の戦い)で戦死します。時に清秀、42歳です。まだ、若いですね。豊臣政権下では重要な武将やったようですから、もう少し長生きしておれば、後の歴史もまた変わっていたかも知れませんね。
清秀公の墓所は茨木市の梅林寺にあります。
梅林寺
中川清秀の墓
彼の子孫は九州の豊後竹田の岡城の藩主として明治まで大名として存続いたします。
岡城
岡城はご存知ですか?天守閣はありませんが、滝廉太郎の荒城の月の舞台になったお城ですよね。なかなか中川家もやりまんねん😀
断絶した大名家の多いことを思うと、大したものですな。中川清秀公は中川家では中興の祖と言われるぐらい偉大な人物であることは間違いないでしょう。子孫は九州にわたりましたが、もと大阪の茨木を地盤にしていた家であるということは、大阪人としてはうれしいことであります。
次週はちょっと山の方へ行きたいと思います。茨木は山の方もおもしろいんですよね。

ブログランキング参加中です!!
ぜひ、ポチっとお願いします!!


大阪府 ブログランキングへ

にほんブログ村

コメント